こんにちは。
「緊張してはいけないの?」の
続きです。
緊張がないとパフォーマンスできない
前回は
「表現は受信である」ことを
お話してきました。
受信なしに表現はできません。
目の前の作品や素材から
何を受け取るのか、受け取れるのかが
表現なのだ、と書きましたが
「脚本の書かれた時代背景を調べます」
「作家の人生をひもときます」
「アナリーゼします」
「作曲者の生い立ちをチェックします」
「なぜこの曲が生まれたかを調べておきます」
ということではありません。
それだと、
「満開の桜が咲いている隅田川の写真」を見ながら、
ああーこういうことを言ってるのね、と
思いつつ、♪はーるの、うらーらーの、と
歌うのと一緒なんです。。。。
もちろん、そうやって「背景」を
調べるのは必要なことです。
けれどそれは受信ではないのです。
うーん、なんだか難しくなっちゃってます?
説明下手だな、あたし。うーむ。
本当はすごくすごく単純なことなんです。
緊張と弛緩は呼吸によって生み出される
もし、表現しようということが
発信しよう、のベクトルに傾くと
私たちの身体は緊張に向かいます。
人間の筋肉は働くときに収縮するからです。
リラックスしよう、
緊張をほぐそう、
と思っても、
完全にそうすることができないのは
そのためです。
反対に、全身の力が抜けた状態で
パフォーマンスはできません。
緊張、集中は必要なことなのです。
そして、実は
パフォーマンスに必要な緊張、集中は
それと同じだけの弛緩を必要とします。
どちらか片方だけでなく、
両方のバランスが必要なことは
以前もお話しましたが
それは、両方あることによって
集中も弛緩も最大限の働きをするからです。
私たちの中に「発信しよう」という
思考だけがあると
集中と弛緩のバランスが取れません。
受信は弛緩につながります。
受け入れることは緩むことだからです。
パフォーマンスしている最中の
受信する感覚は
呼吸をないがしろにしては得られません。
なぜなら、呼吸は
受信と発信のシンボルだからです。
身体の受信と発信は
息を吸うこと、吐くことなのです。
ここの部分は、呼吸について
まとめてお話するとして、
なぜ
「表現すること=発信すること」
になってしまったのかを
もう少し掘り下げましょう。
表現についての間違った指摘
表現力が足りない、
個性がない、
表情豊かに、
人とは違ったものを、
自分を出して、
好きなように思い切りやって、
感情をこめて、
こんなふうな評価を
耳にしたこと、たくさんあります。
言われたことも、もちろんあります。
でもそれって「表現」ですか?
違う、とも言えず
そういう
「周りからの評価」「こうするべきという圧力」
が、私たちの「表現」を「発信」に
すり替えてきてしまったように思うのです。
【バランスを取っていた感覚を思い返してみる】
私だけでなく、
ここを読んでくださっているみなさんも
子供のころは、「難しいこと」を考えず
そのまま自然にパフォーマンスをしていた、
という方が多いのではないでしょうか。
もちろん、
パフォーマンスのレベルは
子供のやることですから、
つたなく、幼稚です。
今とは求めるものも違うでしょう。
だから、比べるようなものではないと
思われるかもしれません。
けれど、
そのときの身体や心の感覚は
今から考えれば、
とても貴重なものだったと思うのです。
思い返してみてください、
どんな感じですか。言葉にできますか。
いかん、話し上手は聞き上手、の
ことを書く余裕がなくなってしまいました。
次に回します。
つづく。
小さなヒント
もっと●●、と言われたとき
「これで十分なんだけどな」と
思ったことありますか。
それとも「そうかあ」と
納得していましたか。

