こんにちは。
補足の続きです。
本文の方で
新興宗教に、ということに
触れましたので
やはり補足した方がいいと思いました。
なにをもって
新興宗教というのかも
曖昧ですし
それらの思想がすべて怪しいとは
思っていません。
また、心の中の問題を
他人がとやかく言う必要も
権限もないと思っています。
ただし、明らかに
狭義な思想を強制する団体に
関しては
一定の距離を置きたいと
思っていますし
大切な関係にある人には
その旨伝えています。
そういう観点の元に
お話していると考えて
お読みくださるとうれしいです。
Something Great
表現を追求していく道は
とても厳しくて、
ある意味
未来の見えない修行をしているかのように
感じることが多々あります。
けれどそのなかで、
いろいろなタイミングが調和して、
人間の力では到底なし得ないような、
美しさの極致、
天とつながったような瞬間を
垣間見る時があります。
人間が
がんばったから
そこへ行けるのではない、
そこには明らかに
偉大なる存在(something great)が
あるのだと
まざまざと思い知らされるのです。
そのsomethingが、
そのままsomethingであると
とらえる方も、
そうではなくて
The Oneだと思う方も、
またはそもそも
そんなものはない、
nothingと、とらえようが、
それはその方の考えです。
強制や説得などとは
無縁の世界です。
そして、
そこから宗教に導かれようが、
導かれまいが、
まず、自分を貫いているのは
表現者ということです。
そこを失う羽目になるようなら、
それは間違った道です。
すべてを超える寛容と受容
また表現の真理の山に向かう道が
いくつもあるように、
自分以外の道が
間違いではありません。
真理という山に登るのに、
この登山道しかないというのは、
表現者のあり方としては、
なにかが欠けているように思います。
表現者になくてはならない寛容さは
広い見識と深い思考から
生まれるものだと思っています。
だからこそ、
なんらかの宗教を信じて
その道を歩むものとされたとき、
それ以外の道が間違いだと
決めつけることの貧しさに
気づくものでありたいと思うのです。
もし、自分が信じているもの以外の道を
受け入れることが
その宗教においては
相容れない概念だったとしても
つまり、
自分以外の道を
否定しなければならないという概念や教義が
あるのだとしても
そこを超えても
他者の思いを受け入れることが
表現者たる矜持である、
そこまで強く私は思っています。
違う山には登らない
ただし、
その真理の山そのものが違っていたら、
話は別です。
他の教えでは幸せになれない、
これだけが正しい、
これだけが本当の道だ、と
囲い込むやり方に
心を奪われることや、
その延長上に
大きな代償(金銭)がある場合は、
すべての可能性を追求する表現者にとって
目指すべきなのか、
登るべき真理の山なのか、
考え直せばいいのです。
どの宗教がいいとか悪いというのではなく、
表現者の私が
それを本当に必要としているのかを
表現者人生をかけて
考えるべきだと思います。
これで終わりです
宗教に関しては
ここで論じる問題ではないので、
これでこのお話を閉じます。
私の思いに近い方も、
真逆のお考えをお持ちの方も
いらっしゃると思いますが、
多様性という言葉の中に
包み込んで収めていただきたく、
この記事に関しての
コメントやメッセージについて
私からお返事をすることはいたしません。
お読みいただき
ありがとうございました。

