こんにちは。
自分から見る自分、他人から見る自分のお話
最終回です。
本当は・・・なのに
自分から見る自分と、
他人から見る自分のギャップ、
まあ、そんなもんだ、と気にしない、
もしくは、違って当然と捉える方は
いいのですが
そこの部分に
悩んだり、苦しむ方のお話を聞くと、
「私は本当は●●なんだけど誤解されてしまう」
ということに
集約されるように思います。
・本当はシャイなのに、
明るい人がわざと遠慮してると思われる
・本当は慎重で怖がりなのに、
なんでも言いたいことを言っていると思われる
・本当はおちゃらけで冗談好きなのに、
暗くて寡黙だと思われる
・本当はのんびりタイプで、
いろんなことを気にしていないのに、
繊細ですぐに反応すると思われる
・・・などなど、
そりゃもう、あなたたち、
どこに目をつけてんの、
ぐらいの怒りに達したりするわけですね。
けれど、他人を見る目というのは、
見る側の事情が大きく反映しているので、
引っ込み思案で
おしゃべり苦手な人からの目と、
どこにも誰にも怖いものありません!
言いたいことはすべて言いまくって
すっきりした毎日を送ってます
という人からの目では、
評価が変わって当然なのです。
いつも一緒にいる人たちの属性によって
評価が変わるわけですから、
「私は●●なのに、
他人からはこう見えてしまう」というのは、
実はあてになりませんし、
その人たちの思考や行動によって
理想のモデルも変わるので、
こうなりたい、も
変化していくわけです。
そうすると
自分が自分を見る目も
当然歪みが生まれます。
歪みの中で起こった問題は、
歪みに直接アプローチするのが
一番早いのです。
これがお話してきた
呼吸レッスンの目的なのです。
私という存在
前回お話した
「られたい」トリオ、
つまり、他人に●●されたい、
という思考は
他人に評価を委ねることになりますから
いつも不安を抱えることになります。
また、評価を得たいので
無意識のうちに
その評価基準に合うような人を
理想に掲げることになります。
「そういう人になりたい」と思う
ほとんどの根っこには
評価を受けたい、という部分が
無意識に含まれるのは、
これが理由です。
表現者が表現すべきなのは
「人」の部分ではありません。
存在そのもの、です。
「こういう人」ではなく
「こういうもの」なのです。
「人」は、何かを行うことで
表わされますが
「もの」は、あるだけで
多くを表わします。
以前もお話したように
Doではなく、Beなのです。
私は●●をする人です、
●●ができるようになりたいです、
ではなくて
私は●●です、
こういうものです、
と存在で語れる、
そういうものを
目指していけたらと願い、
日々、自分の呼吸と
向き合っていきたいと
思っています。
小さなヒント
(解説は公式LINEにて)
自分としては
あまりうまくいかなかったと
思っていることを
他人からすごく褒められたら
どう思いますか。

