こんにちは。
表現をブロックするもの、と
題してお話しています。
感じていることと目に見えていること
前回は
「息が足の裏から入ってくる」感覚について
身体の時間感覚と
アタマの時間感覚は違う、
ということに触れました。
息が足の裏に入ってくる、といっても
本当に足の裏から入ってくるわけではないことは
当然お分かりのことだと思います。
そうです、息は肺に入るわけで
足の裏に息の取り入れ口はありません。
もちろん、皮膚からの呼吸は
あることはありますが
とても微々たるものです。
この手の
「実際に起きていることなのに
(感じられるのに)
そうではないこと」はたくさんありますよね。
たとえば
感激で胸がいっぱいになる、といっても
胸腔が何かの物質で
パンパンになるわけではなく
足が軽くなった、といっても
体重が減ったわけではありません。
このように
本当に確かに感じているのに
ある意味、物質的な裏付けがないことは
実は表現者としては当然でもあり
なくてはならないのです。
表現は受け取ること
身体のいろいろな感覚を
感じられるようになるのには
ある程度の時間と経験が
どうしても必要となります。
表現者の身体は
とても繊細で敏感です。
たとえば
アスリートが
1秒以下のタイムの違いを
ありありと感じられるように
表現者も
聴覚で、視覚で、触覚で
その違いを感じ取り、読み取り、受け取り
表現に活かしていくのです。
そしてその違いを
確実なものにするべく
どんな時でも正確に再現できるように
回数を重ねて会得するべく
練習をします。
けれど、私たちの身体は
生きていて動いていますから
すべてが一期一会でもあるのです。
同じ表現は二度とありません。
そのことを
わかっていながらも
アタマは理解しようとしないのです。
なんとか同じように
なんとかこの前の感覚を取り戻したい
そう思って身体をコントロールします。
生まれたものを受け取るのではなく
生産しようとするのです。
素晴らしいものを
生み出す装置を作るだけではなく
生産することに必死になるのです。
自分の表現を解き放つことは
表現しよう、と必死になることでは
ありません。
身体の時間感覚は
アタマに制限されない
時間の進み方をします。
いつまで経っても
反応できないかと思えば
ある日、いきなり「わかる」ことも
あります。
アタマの時間感覚のように
定量で動く時間ではないのです。
なんでできないんだろう、
こうすれば絶対にうまくいくはず、
と焦って身体を追い立てることで
「足の裏で呼吸している」といった
身体の感覚を失うことになります。
表現は受け取ることです。
受け取ることよりも
こうしたい、こうするといい、という
外へ向かう強烈なベクトルが
表現を強固にブロックするのです。
自分を解き放って
持っていた
いらないものを捨てることで
新しい表現への道が開けると
私は思っています。
小さなヒント
(解説は公式LINEにて)
何かを習うときに
「●●みたいな感じです」と言われて
いや、もっと具体的にどこをどうするのか
教えてほしい、と思ったことがありますか。

