こんにちは。
表現者にとって
表現を学ぶ時においての
わかりやすさについて
お話を続けます。
わかるけどわからない、わからないけどわかる
たとえば、学校で習うような勉強は
わかりやすさ、
絶対に必要ですよね。
わかりにくくても
別にかまいませーん!
なんてのは
ありえないです。
少なくとも
与えられた知識、技術を
受け取ることがメインです。
表現分野の習得、勉強は
そこだけに終わりません。
与えられた知識や技術を
受け取るだけではなく
それをいかに
自分の中に落とし込み
与えられたもの以上のものを
花開くことができるか、
そしてその開花の陰で生まれた
また新たな問題と
どうやって向き合っていくかの
繰り返しだということです。
ここで困るのは
自分ではその問題が全部見えない、
自分では気づけないということです。
そして、さらに困るのは、
何がよくて悪いのか、
道の途中では
はっきりわからないこと。
だからこそ
学びの時には
信頼するに値する先生のもとで、
そのジャッジと方向性を
指し示してもらう
必要があるのですが、
わかるけどわからない
わからないけどわかる
そんな繰り返しを
続けていくことが
当たり前だったりします。
けれど、昨今、
「わかりやすい」
「誰でもわかる」
「すぐに答えが出る」
ことが求められている中で
表現分野の学びにおいても
このようなあり方は
そぐわないのではないかと
思ったりもするのです。
ひとりで練習禁止!
さらに複雑なことがあります。
言葉と身体の動きを関連つける、
つまり、
言葉で語れないものを身体で表す、
身体で表せないことを言葉で表すのが
表現のレッスンですが、
わからないことを
わからないままにした状態だと
できるのに、
わかろうとすると
できなくなるというねじれが
起こることがあります。
例えば、先生やコーチに
「それ!それがいい!」と
言われても
「え?これですか?」と
キョトンとしながら、
言われるままに
やってればできるのに、
おうちに帰って
「そうか、こんな感じだったよね」と
自分で練習していると、
どんどんずれていって、
次のレッスンのときに
「この前はできてたのに、どうした?」と
言われる羽目になったりします。
先生やコーチはそれを防ぐために
「自分で練習してこないで」と
おっしゃるのですが
そんなこといっても、
生徒はできたのがうれしいのと、
練習しなくちゃという呪縛に
かかっているので、
こっそり練習して、
ドツボにはまります。
そうすると、先生やコーチは
「だったら、わかりやすく言葉にして
声掛けすればいいのか」と悩み、
「⚫⚫みたいな感じ」とか
「△△筋をこうやって動かして」と
抽象的、具体的に教えて下さるのですが、
先生やコーチと言葉が違うと
悲惨なことになります。
頭の後ろを開けて声を出す
これは私の情けない経験です。
高校生の時の声楽のレッスンで、
先生に「頭の後ろを開けて」
「頭の後ろから声を出して」と
言われたので、
私は洋服ダンスの
観音開きの扉を
両手で左右に開けるイメージをしていて、
どーも噛み合わず、
なんなんだろうと思っていました。
後になってから、
それは側頭骨と蝶形骨、
そこに付随する組織の位置や角度を
ある位置に変えることであって、
なおかつ直接そこを動かすのではなく、
他のことをすることによって、
最終的にそこが動いて
空間が出現した感覚になる、
だから、直接、
頭の後ろをなにかすることではない、
というのがわかって、
いやあああああ、と
崩れ落ちたのでした。。。
なんでもわかりやすくがマスト?
だったら
なんでも「すぐにわかる」
「完全にわかる」ことを
目指すべきなのか
わかりやすくないと
レッスンにならないのか
わかりやすくないと
表現は深まっていかないのか
そんなふうに
ぐるぐると
考えることになったのでした。
つづく。
小さなヒント
(解説は公式LINEにて)
相手が言っていることを
理解できなかったとき
相手の説明が悪いのだと思いますか。
それとも自分の理解力が
足りないのだと思いますか。

