こんにちは。
思考の自由、価値観について
思うところをお話しています。
これが私にとっての美しさです
なにが正しくて
なにが正しくないか
その線引きは
本当のことを言えば
厳然としたものがあるのですが
それを追求するのではなく
もしくは
その判断が目的でも目標でもない
そういうものが
芸術だと私は思っています。
正しさよりも美しさが
必要だからです。
美しいということは
正しさよりも
さらにその人の価値観が
浮き彫りになります。
正しいから行う
正しくないから行わない、
そういう簡単なものでは
なくなるので
どこに美しさの基準を置いたら
納得できるのか
自問自答しなくてはなりません。
「教えられた正しいことをやる」ことは
単なる学習発表ですが
「私の中で生まれた美しさがこれです」
とすることが表現なのです。
私はこれこそが美しいと思っている
私の価値観はこれなのだ
この高らかな宣言が、表現なのです。
だからこそ
思考の自由が必要なのです。
私の美しさ VS 他人の美しさ
自分の価値観に裏付けされた
美しさは
誰かに強いることではなく
誰かにおもねることでもなく
自分の中で確固としてあるものです。
同じような美しさを
追求する仲間と響き合うことは
簡単ですが
違う価値観、違う美しさを持つ人たちと
同じ場に置かれた場合、
どうやって交わるかを
考える必要があります。
ご自分の信条や思いや道を
なんとかして相手にわかってもらいたい
と無理やり組み伏せる方が
最近多いように思います。
・あなたの考えは間違っている、
・あなたの道よりも
こちらの道の方が本当の道だ、
・本物はこれなのに気づかないなんて、
・そんなことしていると、
いつかダメになる
そうやって
ご自分の正しさを声高に主張し
なぜわからないのと詰め寄るのです。
芸術の場面だけではありません。
あなたのことを思って
間違いを正してあげているのに、
なぜ言うこと聞けないの、
私とあなたの関係だから言っているのに
それすらも受け入れられないって
どういうことなの、と
先生と生徒、家族など、
近い関係なら
同じ価値観を持つのが
当たり前だと
頭ごなしに言い含める
美しさとはまったく逆の光景を
目にする、耳にすることを
経験してきました。
思考の自由を手にすることの
難しさは
こういうところが
大きな要因のように思うのです。
つづく。
小さなヒント
(解説は公式LINEにて)
これが正しいと思っていることを
自分の生徒や家族が
受け入れなかったら
どう思いますか。
破門ですか。勘当ですか。

