少し長くなりましたが
表現者の方にとっての仕事について
いくつかの方向から考えてきました。
今回で最終回です。相当長いです。
ゆるゆるとどうぞ。
自分を認めていない
これまで、表現の仕事を
プロとして胸を張って
言い切れないことについて
お話してきましたが
そうさせる、
表現者の方たちの心の底にある
「自分自身を自分で認められない」ことに
触れようと思います。
社会的にそのような職業を
ある意味「否定」されることに対して
ご自分の中でその否定に
心のどこかで同意してしまうことや
「プロというなんて私はまだ足りない」
「名乗る資格がない」という感覚がある方が
思いのほか多いように思うのです。
それは謙虚、というような問題ではなく
一番はその方たちが受けてきた教育に
大きな根源があります。
つまり、受けてきた教育が
育てる方向ではなく
選別する方向であったことです。
日本の芸術教育は、長い間、
才能があるかorないか
向いているかor向いていないか
残れるかor脱落するか
という選別のロジックで
組み立てられてきました。
コンクール、オーディション、
ランク、序列、主役、脇役、で
選別されることは
もちろん日本に限りませんが
(むしろ、日本以外の国の方が
その傾向は強いかもしれないのですが)」
「どう育ち続けるか」
「どう多様な在り方を肯定するか」
という視点を置き去りにして
勝ち負けにこだわる視点の方が強いのは
表現の世界だけでなく
スポーツの世界でも学術の世界でも
顕著であるように思います。
その結果、表現者は
まだ足りない、
上に行けていない
完成していない、
充分な評価が足りない、
と思いこむことになり、
だから、まだプロとは言い切れない
認められるところまでいっていない、
欠けがあるうちは一人前ではない・・・
となります。
謙虚なのではなくて、
条件付きの自己承認、自己肯定なのです。
それも思いこまされる、
他人からの視点の上に立った条件です。
ただし、ここで誤解しやすいのですが、
必要なのは「私は素晴らしい」
「私はもう充分、完璧」と
思い込むことではありません。
必要なのは
私は欠けたままでも
この役割を担っている
この現場に責任を持っている
という事実への同意なのです。
単純な自己肯定ではなくて、
自己認識の精度をあげる
自分を内側と外側両方から見る、
ということです。
ちょいと言葉がめんどくさくなりました。
もう少し違う方向からお話します。
自分の表現に確信が持てない
日本の芸術教育で特に問題なのは、
技術的批判や人格の評価などが
将来性と区別されず
(もしくは将来性について
深く考えることがなされず)
ごちゃごちゃになっていることです。
切り離されるべきものが
切り離されていないのです。
たとえば
「その表現は私(先生)とは違う」
「あなたの身体(肉体面)は、こんな特徴がある」
「そういう性格、考え方は生徒としては珍しい」
と指導者から指摘されることが
「あなたはこの世界には向いていない」
「生き残っていけないのではないか」
ということと混ざってしまい、
(一見、それらしく聞こえるので
生徒の方もそう思いこまされてしまうが
それだけの条件で決まるわけではない)
本当は全く別なことなのに
そう言われたことが生徒の心に刺さって
まだ足りない、
まだ認められない、
まだ名乗れない、
となり、
挙句の果てには
私はプロとしての表現者は無理だ、という結論に
自らを追い込んでしまうのです。
日本の社会は
欠けがある状態で公に名乗ることに対して、
非常に抑圧的で批判的です。
完璧でなければ出るな、
十分でなければ名乗るなという無言の圧が、
自己紹介のときのためらいや
肩書を言うときの罪悪感、
プロだと言い切れない感覚に
つながっています。
たとえばこれがもし、
あなたがサラリーマンで
大企業に勤務していれば、
企業名を言えばためらいもなく、
自己紹介として完璧ですし、
誰もが知っている
高収入と言われている職業名を言えば、
それがイコール自分を表わすものとなりますから
これまた誰からも責められません。
しかし、表現者には
「寄らば大樹の陰」の「大樹」は
ないのです。
(ときどき、
●●門下、△△に師事という
「錦の御旗」を振りかざすケースが
散見されますが、
無意味でバカバカしいことです。
錦でも御旗でもないのよ)
おまけに奇妙な師弟関係が存在し、
自分の意見を言おうものなら
「100年早い」と否されるのは
(たとえば、学生の分際で
自分の弾きたい曲を
レッスンに持っていくなんて
ありえないとされたりします)
師匠と弟子という関係ではなくて
考える前に従いなさい、
解釈する前にその通りにしなさい
疑問を持つような場合ではありませんという
思考の停止を伴う関係性なのです。
この構造では、
自分の感覚を言語化する力や
他者と表現について対話する力が
育ちません。
結果として、
自分の表現に確信が持てないプロが
大量に生まれる、という
皮肉な状況が起きます。
ブレイクスルー呼吸®のレッスンで
ここを打破するのに時間がかかるのは
表現の経験の浅い方ではなくて
プロの表現者であるのは、
ここが理由でもあるのです。
自分で判断する訓練
このような環境で育った表現者は、
正解が提示されないとき、
自分で決めなければならない瞬間、
誰も「お手本」を示してくれない仕事のときに
壁にぶつかることになります。
そこで初めて、
自分で判断する訓練を
受けてこなかったのだと
気づくことになります。
そしてそれを
自分に能力がないのではないか
向いていないのではないかと
自分の欠けだと誤解してしまうのです。
だからこそ、
「私は、なぜこの選択をしたのか」
「これは誰の正解なのか」
そして
「私は何をしたいのか」ということを
自分で問うことを
重ねていく必要があるのです。
呼吸のレッスンは
単に「表現の時の呼吸」を
習うのではないのです。
そんなもの(というのはなんだけど)
もう、できているはずなんです。
そうではなくて、
表現者として生きていくために
絶対に必要だけれど
気づいていないこと、
わかっていないこと、
もっとブラッシュアップしたいこと、
そういうことを見つけるために
ブレイクスルー呼吸®のレッスンが
あるのです。
さて、2025年の投稿もこれが最後になりました。
新たな年に向けて
ご自分の養いのための呼吸を
ぜひ味わっていただきたいと思いつつ、
今年の感謝を申し上げます。
ありがとうございました。
来年もどうかみなさまの
素晴らしい表現が花開きますように。


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