こんにちは。
「外野がうるさい」のお話
最後です。
前回、
自分と他者との境界線について
触れましたが
この手の話で起こりがちな
誤解にも
触れておこうと思います。
他人に優しくする気持ちの裏側
自分のテリトリーをしっかりする、
他人とはきちんと線を引く、
というようなことを考えるとき
それって他人を寄せ付けない、
自分は自分、関わらない、
他人との違いをきちんと把握する
ことになりませんか、と
聞かれることがあります。
思いやりがないんじゃないかとか
冷たいんじゃないかと
考えていらっしゃる方が
思いのほか、多いように思います。
特に「優しい性格」の方は
他人に対しても自分と同じように
ケアをすることが当然だし
見てみぬふりもできない、
一生懸命、相手のために尽くすことを
優先していらっしゃるのだろうと
思います。
けれど、
そうやって他人に優しくすることと
境界線を引くこととは
全く別の次元、別の話です。
むしろ、
自分がしっかり確立していないのに
他人のことが気になって
そちらのケアを優先するのは
自分を他人の中に
溶け込ませてしまうことでもあり
それは実は
他人を自分の思うように
動かしてしまうことでもあるのです。
いえいえ、
そんなわけない、と
お思いになるかもしれませんが
ご自分のことができないのに
他人のことをかまうのは
優先順位が違うと
気づいていただけるといいなと
思うのです。
裸になれない
そして、さらに言うと
単に純粋に
他人を思いやるのではなくて
内心では
自分に自信がなくて
自分の尊厳がなくて
自分を認められなくて
他人に何かを施すことで
他人の世話を焼くことで
他人にちょっかいを出すことで
自我を確立せざるを得ないケースが
とても多いのです。
周りがどんな状況であれ
じっと一人の時間を
静かに平安に過ごすことができず
そわそわと
周りのことに
気が散ってしまうのは
こういう背景があるのです。
そして
こういうタイプの方は
自分が裸になることへの
不安や恐怖も
持ち合わせることになりますから
どうしても
ここぞ、というパフォーマンスの場で
周りが気になる、
つまり、外野にボールを打つしか
なくなるのです。
呼吸がドラマティックに自分を変える
自分と向き合って
自分を確立すること、
難しいですよね。
すぐになんて
できないだろうし
できたと思っても
また手から逃げて行ったり。
表現者だろうと
そうでなかろうと
おそらく
一生かけて
求めていくものですよね。
いろいろな方法で
ここにアクセスすることを
みなさまが
なさってきたことと
思いますが
私は、やはり
呼吸のワークで得られるものの
大きさをどうにかして
知っていただきたいなと
思うのです。
アタマで考えるのではなく
気持ちを動かすのではなく
身体を鍛えるのではなく
吐いて吸う、
それだけのことに
どれだけの豊かさがあるか
そしてそれによって
すべてのものが
ドラマティックに
変わっていくことを
体験していただけたらと
願っています。

